大手企業におけるリーン:硬直的な承認・評価プロセスを乗り越える教訓
大手企業とリーンのギャップ:承認・評価プロセスの課題
新規事業開発において、リーンスタートアップの手法は仮説検証に基づいた迅速な学習と方向転換を可能にする強力なフレームワークとして広く認識されています。しかし、特に大手企業においてこの手法を導入しようとすると、組織構造や既存のビジネスプロセスとの間で様々な摩擦が生じます。その中でも、硬直的な予算承認プロセスや事業評価プロセスは、リーンなアプローチの最大の障壁の一つとなることが少なくありません。
大手企業は通常、詳細な事業計画に基づいた長期的な予算編成と、厳格な財務指標を中心とした定期的な評価サイクルを持ちます。これは、既存事業の安定性と効率性を維持するためには合理的である一方、不確実性の高い新規事業、特に顧客や市場のニーズがまだ不明瞭な段階で迅速な実験と学習を繰り返すリーン思考とは根本的に相容れない側面があります。
リーンでは、詳細な計画よりも実行と学習を重視し、当初の計画からピボット(方向転換)を行うことが前提となります。しかし、大手企業の承認プロセスは、往々にして「計画通りに実行できるか」に焦点が置かれ、計画からの逸脱や不確実性に対して非常に厳しい目を向けがちです。また、評価においても、早期の収益や明確なROIが求められやすく、仮説検証や学習といった、将来の大きな成果につながる可能性のある「途中段階の成果」を適切に評価する仕組みが不足しています。
このような組織的な壁は、新規事業担当者がリーン手法を用いて迅速な実験やピボットを行おうとする際の大きな足かせとなります。必要な予算の確保に時間がかかりすぎたり、実験の失敗や計画変更が不当に低く評価されたりすることで、担当者のモチベーション低下や、リーン実践そのものの停滞を招く可能性があります。
事例分析:硬直プロセスへのリーンの適用と組織的工夫
具体的な事例をいくつか見てみると、この硬直的な承認・評価プロセスという壁に対して、様々なアプローチが試みられています。成功事例からは、既存プロセスとのミスマッチを認識し、それを補う、あるいは迂回するための組織的・プロセス的な工夫が見られます。一方、失敗事例からは、単にリーン手法を導入するだけでは、組織の根深い文化やプロセスを変えることは難しいという教訓が得られます。
事例に見る克服アプローチ:
- 小規模予算での実験開始: 大規模な予算承認が必要となる前に、極めて小規模な予算でMVP(実用最小限の製品/サービス)を開発し、初期の仮説検証を行うアプローチです。これにより、承認プロセスのハードルを下げつつ、初期の学習を加速させます。この段階では、収益性よりも「顧客が課題を抱えているか」「提案するソリューションに関心があるか」といった非財務的な学習成果を報告の中心に据えます。
- 特定の承認ルートの活用: 新規事業に特化した承認委員会を設ける、あるいは特定の役員との間で非公式に近い形で迅速なフィードバックを得られるチャネルを構築するなど、既存の階層的な承認プロセスとは異なるルートを設ける工夫です。ここでは、事業計画の完璧さよりも、仮説、検証方法、期待される学習内容を共有し、継続的な対話を通じて理解を深めることが重要になります。
- 評価軸の見直しと合意形成: 事業の早期段階における評価は、財務指標だけでなく、顧客開発の進捗、仮説検証によって得られた学び、ピボットの妥当性といったリーン的な指標を重視するよう、関係者間で事前に合意形成を図ります。新規事業担当者は、計画通りに進んでいるかだけでなく、「何を学び、その学びに基づいて次に何を検証するか」を明確に報告する責任を持ちます。失敗は責められるべきものではなく、価値ある学習機会として捉え直す文化の醸成が必要です。
- 「学習予算」としての位置づけ: 新規事業予算を、初期段階においては「市場や顧客について学習するための投資」と位置づけ、その成果を学習量や質の観点から評価する考え方です。これにより、計画通りの成果が出なくても、有益な学びが得られていれば次の検証フェーズへの進展を認めやすくなります。これは、従来の厳格なROI評価からの脱却を意味します。
失敗事例に見る落とし穴:
- 既存プロセスへの無批判な適用: リーンの精神を理解せず、新規事業にも既存事業と同じ詳細な事業計画、長期予算、厳格な財務KPIを要求してしまったケースです。結果として、実験やピボットが許容されず、リーンな開発サイクルが回せませんでした。
- 評価基準の曖昧さ: リーン的な評価指標の導入を試みたものの、その基準や重要性について組織内で共通認識が得られず、結局は従来の財務指標で評価されてしまい、担当者の努力が報われなかったケースです。
- コミュニケーション不足: 新規事業の不確実性やリーン手法の特性について、上層部や関係部門への説明や理解促進を怠ったため、実験の失敗やピボットが単なる「計画からの逸脱」と見なされ、信頼を失ってしまったケースです。
大手企業の新規事業担当者が得られる教訓
これらの事例から、大手企業でリーンを実践し、特に硬直的な承認・評価プロセスを乗り越えるためには、以下の教訓が導き出されます。
- 早い段階での小規模な成功と学習を示す: 最初から大規模なリソースを求めず、検証済みの仮説や具体的な学習成果を伴う小規模な実験結果を示すことで、組織の信頼を得ながら段階的にリソースを獲得していく戦略が有効です。
- 承認者・評価者との対話を重視する: 事業計画だけでなく、リーンキャンバスや仮説検証プランといったツールを用いて、事業の不確実性、検証すべき最重要仮説、それを検証するための最小限の方法(MVP)、そして期待される学習内容を明確に説明し、理解を求める努力を継続します。一方的な報告ではなく、対話を通じて関係者の「リーン筋力」を高める意識が重要です。
- 評価軸の提案と合意形成を主導する: 早期段階での事業評価において、どのようなリーン的な指標(例:検証された顧客セグメント、解決された課題の確認、関心を示す顧客数、検証済みのリスクなど)で評価されるべきかを具体的に提案し、関係者と事前に合意を取り付けます。失敗した場合でも、そこから得られた学習内容を価値ある成果として報告できるよう準備します。
- 失敗を学習機会として報告する文化を築く: 失敗事例を隠蔽するのではなく、そこから何を学び、次にどう活かすかを分析し、透明性を持って報告します。これにより、失敗が単なる損失ではなく、将来の成功に向けた重要なステップであるという認識を組織内に徐々に浸透させることができます。
- プロセスの柔軟性を勝ち取るための組織内交渉: 既存の硬直的なプロセスが新規事業の足かせとなっていることを具体的にデータや事例(自社・他社問わず)で示し、新規事業に特化したプロセス(例:迅速な予算執行が可能な少額予算枠、非財務指標を重視した評価会)の導入や例外的な適用について、粘り強く交渉することも時には必要です。
まとめ
大手企業において、新規事業開発にリーン手法を適用する際の最大の課題の一つは、既存の硬直的な承認・評価プロセスとのミスマッチです。この壁を乗り越えるためには、単にリーン手法のフレームワークを形式的に導入するだけでなく、組織の文化やプロセスそのものに対し、リーン思考に基づいた柔軟性や学習の重要性を浸透させるための戦略的なアプローチが不可欠です。
小規模な成功と学習を積み重ねて信頼を構築し、関係者との対話を通じて評価軸の共通理解を図り、失敗を価値ある学習として受け入れる文化を醸成すること。これらは、大手企業の硬直的なシステムの中で新規事業を成功に導くために、新規事業担当者が主体的に取り組むべき重要な教訓と言えるでしょう。既存の強みを活かしつつ、リーンの俊敏性と学習能力を取り込むための組織的な変革は容易ではありませんが、これらの努力こそが、不確実な市場環境で新たな価値創造を実現するための鍵となります。