既存システム開発プロセスの中でリーンを実践する教訓:大手企業の新規事業開発
はじめに:大手企業におけるリーンと既存プロセスの現実
大手企業で新規事業開発に取り組む際、リーンスタートアップの手法を取り入れたいと考える担当者は少なくありません。市場の不確実性が高い新規領域において、仮説に基づいた迅速な実験と学習、そして柔軟な方向転換(ピボット)を可能にするリーンは、非常に有効なアプローチだからです。
しかし、多くの大手企業には、既存のITシステム開発やプロダクト開発において、確立された堅牢なプロセスが存在します。それは、要件定義から始まり、基本設計、詳細設計、開発、テスト、そして厳格な承認を経てリリースされる、いわゆるウォーターフォール型開発プロセスであったり、段階的なフェーズゲートを設けたプロジェクト管理手法であったりします。これらのプロセスは、既存事業の維持・改善やリスク管理の観点からは有効に機能してきた歴史を持ちます。
新規事業開発においてリーンを実践しようとする担当者は、往々にしてこの既存のプロセスとの摩擦に直面します。「顧客の課題は何か」を探る段階で詳細な要件定義を求められたり、不確実性の高いアイデアに対して大規模な予算と固定の納期を要求されたり、迅速なMVP(Minimum Viable Product)開発や頻繁なアップデートがセキュリティポリシーやリリース承認プロセスと相容れなかったりするケースです。
本稿では、このような大手企業特有の環境において、既存のシステム開発プロセスの中でリーン手法を実践する際に直面するであろう課題を深掘りし、そこから得られる実践的な教訓について考察します。完全に独立したリーンチームを編成できない場合や、既存のシステム資産を活用せざるを得ない状況下で、どのようにリーン思考を取り入れ、新規事業の成功確率を高めるかを探ります。
リーンと既存プロセスの衝突点と背景
なぜ、リーンスタートアップの手法と大手企業の既存開発プロセスは衝突しやすいのでしょうか。その主な衝突点と背景を整理します。
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計画重視 vs. 探索・学習:
- 既存プロセス: 事前の詳細な計画に基づき、リスクを最小限に抑えつつ、計画通りに進めることを重視します。要件定義や設計に多くの時間をかけ、後戻りが発生しないよう努めます。
- リーン: 不確実性を前提とし、仮説を立て、それを検証するための最小限の製品(MVP)を素早く市場に出し、顧客からのフィードバックを得て学習し、次の行動を決定します。計画は常に暫定的なものであり、学習によって柔軟に変更されます。
- 衝突の背景: 大手企業では、予算確保や社内外への説明責任のために、緻密な計画と見積もりが求められます。計画からの逸脱は失敗と見なされがちで、予期せぬ方向転換(ピボット)は理解を得にくい傾向があります。
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固定スコープ・予算・納期 vs. 柔軟なスコープ・予算・納期:
- 既存プロセス: プロジェクト開始前にスコープ(機能範囲)、予算、納期を確定させることを目指します。変更には厳格な管理プロセスが必要です。
- リーン: 顧客の課題やソリューションの有効性が不確実であるため、初期段階でスコープを固定することは困難です。学習に応じてスコープや必要な開発リソース、期間は見直される可能性があります。
- 衝突の背景: 大手企業の財務・会計プロセスや契約慣行は、固定された計画に基づくものが主流です。予算の組み直しや納期の変更は、多くの部門の承認を必要とし、迅速な対応を難しくします。
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詳細設計・品質保証 vs. 迅速な検証・実用最小限:
- 既存プロセス: 高い品質基準を満たすために、詳細な設計レビュー、厳格なテストプロセス、多段階の承認プロセスを経てリリースされます。
- リーン: 仮説検証のためには、必要最低限の機能を持つMVPを迅速に市場に出し、実際の顧客に使ってもらうことが重要です。品質は段階的に向上させていくアプローチを取りがちです。
- 衝突の背景: 既存システムの安定稼働やブランドイメージ維持のため、品質やセキュリティに対する要求水準は非常に高いのが一般的です。MVPを「不完全なもの」と見なし、社内基準に満たないとして開発やリリースを差し止められる可能性があります。また、既存システムのリリース・承認プロセスは、新規事業の迅速な実験サイクルに適合しない場合が多いです。
これらの衝突は、単に開発手法の違いだけでなく、大手企業の文化、リスク管理の考え方、組織構造、評価制度などに深く根差しています。新規事業担当者は、これらの構造的な壁を理解した上で、リーンを実践するための戦略を練る必要があります。
既存プロセス内でリーンを実践するための教訓
完全に独立した環境が与えられない場合でも、既存のシステム開発プロセスの中でリーン思考や手法を取り入れることは可能です。鍵となるのは、「完全なリーン」を目指すのではなく、既存プロセスの枠組みの中で「リーンのエッセンス」をいかに注入し、関係者の理解を得ながら進めるかです。以下に、具体的な教訓をいくつか提示します。
教訓1:既存プロセスの「言語」に翻訳する
リーンスタートアップの概念や専門用語(MVP、ピボット、顧客開発など)は、既存プロセスに慣れ親しんだ関係者(情報システム部門、企画部門、経営層など)には馴染みがなく、抵抗感を生む可能性があります。そこで、リーンの目的と活動を、既存プロセスの言葉に翻訳して説明することが有効です。
例えば、「MVP開発」を説明する際に、「顧客のニーズを早期に確認し、手戻りを最小限にするための『プロトタイプ開発』フェーズを前倒しで行います」のように説明したり、「仮説検証」を「リスクの高い前提条件を、実際のデータに基づいて検証する事前調査活動」と説明したりします。計画変更についても、「市場環境の変化や顧客からのフィードバックに基づき、当初計画の前提条件が妥当か検証し、必要に応じて計画を『最適化』します」といった表現を用いることで、理解を得やすくなります。
教訓2:既存プロセスのボトルネックを特定し、部分的な最適化を図る
既存プロセス全体を一度に変更することは困難ですが、新規事業開発におけるリーン実践の妨げとなっている特定のボトルネックを特定し、その部分のみ改善や例外適用を働きかけることから始めます。
例えば、リリース承認プロセスが遅いことが問題であれば、新規事業に限り、承認権限をより現場に近い担当者に移譲してもらう交渉をしたり、承認が必要なフェーズを限定したりすることを検討します。また、詳細な要件定義が必須であれば、初期段階では「学習すべきこと(仮説)」と「それを検証するための必要最低限の機能要件」に焦点を絞り、要件定義書の一部を「仮説検証計画書」や「学習目標」として記述するなど、書類の様式や粒度を調整することを試みます。
教訓3:既存プロセス関係者を「顧客開発」の対象とする
新規事業開発の対象顧客だけでなく、社内の既存プロセス関係者(IS部門、品質保証部門、法務部門、リスク管理部門など)もまた、新規事業を推進する上で重要なステークホルダーであり、彼らの懸念やニーズを理解し、共感を醸成する必要があります。これは社内における「顧客開発」とも言えます。
彼らが最も懸念していることは何か(例:システムの安定性、セキュリティリスク、コンプライアンス遵守、既存業務への影響など)を丁寧にヒアリングし、リーンのアプローチがこれらの懸念に対してどのように対処できるのか、あるいは新たなリスクをどのように管理するのかを具体的に説明します。早い段階から彼らを議論の場に巻き込み、一緒に解決策を考える姿勢を示すことで、協力を得やすくなります。彼らの持つ専門知識や経験(例:システム運用、セキュリティ、コンプライアンスに関する知見)は、リーンチームにとって貴重なインサイトとなり得ます。
教訓4:小さな成功事例を作り、信頼を積み重ねる
既存プロセスの壁を乗り越えるためには、実績を示して信頼を勝ち取ることが最も説得力があります。最初は社内向けツールや既存サービスの小規模な改善など、比較的リスクが低く、短いサイクルで成果が出せるテーマでリーン手法を試験的に適用し、成功事例を作ることを目指します。
顧客からの肯定的なフィードバック、開発サイクルの短縮、手戻りの削減、コスト効率の向上など、リーン適用による具体的な効果をデータで示し、既存プロセス関係者や経営層に報告します。小さな成功を積み重ねることで、「リーンは従来のやり方とは違うが、メリットがある」「このチームなら任せても大丈夫そうだ」という信頼感を醸成し、より大胆な新規事業へのリーン適用や、既存プロセス自体の見直しに対する理解を得ていきます。
教訓5:既存プロセス準拠とリーンのバランスを意識する
すべての活動をリーン方式で行うことが難しい場合、開発プロセスの一部や特定のフェーズにリーン思考を取り入れるという現実的なアプローチも考えられます。
例えば、初期の「探索フェーズ」や「アイデア検証フェーズ」ではリーン的な仮説検証とMVP開発に重点を置き、顧客や市場での確証が得られた後の「本格開発フェーズ」では既存のウォーターフォール型プロセスや厳格なプロジェクト管理手法に沿って進める、といったハイブリッド型のアプローチです。この場合、フェーズ間の移行基準を明確にし、どこからどこまでをリーン的に進めるのか、その成果物(学習内容、検証データ、プロトタイプなど)を次の既存プロセスにどう引き渡すのかを事前に定義しておくことが重要です。全てをリーンにするのではなく、「どこにリーンを適用するのが最も効果的か」を見極める視点が求められます。
まとめ:現実の制約の中でリーンを推進する
大手企業において、新規事業開発でリーンスタートアップを実践する道のりは、既存の組織文化やシステム開発プロセスという大きな壁に阻まれがちです。しかし、これらの壁は乗り越えられないものではありません。重要なのは、リーンの理想論をそのまま持ち込むのではなく、自社の現実的な制約条件を深く理解し、その中でリーン思考の「エッセンス」をどのように注入できるかを戦略的に考えることです。
既存プロセスの関係者を早い段階から巻き込み、彼らの言葉でリーンのメリットを説明し、彼らの懸念を払拭する努力を惜しまないこと。既存プロセスのボトルネックを特定し、部分的な改善を働きかけること。そして、小さな成功事例を積み重ねて信頼を構築し、段階的にリーンを適用できる範囲を広げていくこと。これらの実践的なアプローチを通じて、大手企業という環境下でもリーンな新規事業開発を推進していくことは十分に可能です。
リーン手法は、単なる開発フレームワークではなく、不確実な状況下で価値創造を目指すための「考え方」です。この考え方を既存プロセスの制約の中でも柔軟に適用し、組織全体の学習能力を高めていくことが、大手企業における新規事業成功の鍵となるでしょう。