リーン事例分析ノート

大手企業の硬直した戦略プロセスにリーンを持ち込む壁:不確実な新規事業を進める教訓

Tags: 大手企業, リーンスタートアップ, 新規事業開発, 組織課題, 戦略策定

大手企業における戦略策定プロセスとリーン手法の衝突

多くの大手企業では、事業計画の策定は極めて重要視されており、詳細な市場分析、競合調査、数年にわたる収益予測などが求められます。この計画重視の文化は、既存事業の安定的な成長やリスク管理においては有効に機能することが多いと言えます。

しかし、不確実性の高い新規事業開発において、この硬直した戦略策定プロセスがリーン思考の実践を阻む大きな壁となることがあります。リーンスタートアップは、初期段階では仮説に基づいてMVP(実用最小限の製品)を構築し、顧客からのフィードバックを通じて学び、柔軟に方向転換(ピボット)を行うことを核とします。この「不確実性を前提とし、計画よりも学習と検証を重視する」というアプローチは、精緻な計画と予測に基づいた従来の戦略プロセスとは根本的に異なります。

本記事では、大手企業が新規事業開発にリーン手法を取り入れる際に直面する、戦略策定プロセスとの衝突の具体的な様相を分析し、この壁を乗り越え、不確実性の高い領域で事業を推進するための教訓を探ります。

計画重視文化がリーンを阻むメカニズム

大手企業の計画重視文化は、新規事業開発におけるリーン手法の実践をいくつかの側面から困難にします。

第一に、詳細な事業計画を作成するためには、市場規模、ターゲット顧客、収益モデル、競合優位性などについて、現時点では不明確な点を明確に記述する必要があります。リーンではこれらの多くは初期の「仮説」に過ぎませんが、計画プロセスでは「事実」や「確定事項」として扱われがちです。これにより、まだ検証されていない仮説が早期に固定化され、柔軟な方向転換が難しくなります。

第二に、計画からの逸脱が「失敗」と見なされやすい風土です。リーンでは、仮説が間違っていることが判明した場合の方向転換は学習の成果と捉えられます。しかし、計画通りに進まないことは、責任問題や計画策定能力の不足として評価されるリスクを伴うため、担当者は計画通りに進めることに固執したり、不都合な検証結果を過小評価したりする誘惑に駆られる可能性があります。

第三に、投資判断や進捗管理において、既存事業と同じような定量的な指標(例:売上、利益率、ROI)が求められがちです。新規事業の初期段階では、顧客獲得コストや顧客生涯価値といったリーン指標の方が事業の将来的なポテンシャルを測る上で適切である場合が多いですが、従来の評価基準に合わないため理解を得るのが困難です。

戦略プロセスとの具体的な衝突点

この壁を乗り越えるための教訓

大手企業が硬直した戦略プロセスの中でリーン手法を活かし、不確実な新規事業を推進するためには、以下のようなアプローチが有効であると考えられます。

  1. 全社戦略における新規事業の役割を明確化し共有する: なぜ、既存事業の延長線上ではない、不確実性の高い新規事業に取り組む必要があるのか。それが将来の成長の柱を築くためなのか、新たな市場を開拓するためなのか、破壊的イノベーションを狙うためなのか。その戦略的な位置づけを経営層が明確に定義し、社内に繰り返し伝えることが重要です。これにより、新規事業が既存事業と同じ基準や計画プロセスでは測れない特殊性を持つことを、組織全体が理解する土壌ができます。

  2. リーン手法の目的を「計画精度向上」ではなく「学習と不確実性低減」として伝える: リーン手法は、初期の低い精度での仮説を、市場との対話を通じて学習し、不確実性を段階的に低減していくための科学的なアプローチであることを、戦略部門や経営層に粘り強く説明します。最終的に精度の高い計画を作成するためにも、まずはリーンによる学習が不可欠であるという論法は、計画重視文化の中では受け入れられやすい可能性があります。

  3. 初期段階のドキュメントを「事業計画書」ではなく「学習計画書」として提示する: 完全に新規性の高い事業の場合、初期に詳細な事業計画書を完璧に作成することは不可能です。代わりに、「この事業にはどのような不確説性(リスク)があり、それを解消するためにどのような仮説を立て、どのような検証(実験)を行い、何を学ぶか」という「学習計画」として提案します。この際、組織が慣れている形式(例:パワポのページ構成など)を踏襲しつつ、内容をリーン的にすることで、形式上のプロセス要件を満たしつつ、リーン思考に基づいた承認を得やすくする工夫が求められます。

  4. 早期の投資判断に「学習指標」と「オプション価値」の概念を導入する: 初期段階での投資判断は、従来のROIではなく、どれだけ早く重要な不確実性を解消できるか、学習速度はどうか、といったリーン指標(顧客獲得コスト、コンバージョン率、継続率など)に基づいて行うべきであることを提案します。また、新規事業は「将来大きな事業に発展する可能性というオプション」を購入するものと捉え、そのオプション価値を維持・向上させるための投資であると説明することで、短期的な財務計画の制約から解放される可能性があります。

  5. 戦略・企画部門との対話と連携を深める: 戦略策定を担当する部門を単なる承認者として見るのではなく、新規事業の成功に向けたパートナーとして捉えます。彼らもまた、変化の速い時代において、どのようにして将来の不確実な成長機会を見出し、育成していくかという課題を抱えています。リーン手法が、不確実性の高い領域における戦略策定や事業機会の評価に有効なツールとなりうることを伝え、早い段階から情報共有や議論を行うことで、相互理解を深め、協力体制を築くことが重要です。

まとめ

大手企業における計画重視の戦略策定プロセスは、リーン思考に基づく不確実性の高い新規事業開発にとって、無視できない壁となります。しかし、この壁は完全に乗り越えられないものではありません。

重要なのは、単にリーン手法を「新しい開発プロセス」として導入するだけでなく、それがなぜ不確実性の高い新規事業に適しているのか、従来の計画プロセスとどのように異なり、どのような価値をもたらすのかを、組織内の主要なステークホルダー、特に戦略部門や経営層に対して根気強く伝え続けることです。

「事業計画」ではなく「学習計画」という概念で提案したり、従来の財務指標だけでなくリーン指標の重要性を説明したり、既存プロセスに寄り添いつつリーン的な内容を盛り込む工夫をしたりするなど、自組織の文化や構造を深く理解した上で、リーンを推進するための具体的なアプローチを模索することが求められます。

不確実性を前提とし、学習と検証を通じて事業を前に進めるリーン手法は、将来の成長を担う新規事業において強力な武器となります。計画重視文化の中でこの武器を最大限に活かすためには、組織的な壁との向き合い方を戦略的に考えることが不可欠です。